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十年後の初恋
十年後の初恋
مؤلف: 菊池まりな

第1話 卒業式前夜

مؤلف: 菊池まりな
last update تاريخ النشر: 2026-07-30 21:29:49

体育館の裏、桜の蕾もまだ固い三月の夜だった。

早坂有紗《はやさかありさ》は、コートの前をかき合わせながら、校舎の非常階段に座っていた。明日には卒業式がある。制服を着るのも、あと一度きりだ。

「こんなところにいたのか」

声に振り返ると、桐生篤《きりゅうあつし》が息を切らして立っていた。前髪が汗で額に張りついている。きっと教室から探し回ってくれたのだろう。

「……何か用?」

有紗は、努めて何でもない声を出した。篤が何を言おうとしているのか、わかっていた。わかっていたからこそ、逃げてきたのだ。

篤は階段を三段のぼり、有紗より少し高い位置で足を止めた。夜風が二人のあいだを通り抜けていく。

「有紗、俺──」

「篤くん」

有紗は先に言葉を挟んだ。続きを言わせてはいけない、と思った。もし篤が想いを口にしてしまえば、自分はきっと頷いてしまう。頷いてしまえば、後戻りできなくなる。

母の病気のことは、誰にも話していなかった。話せば「かわいそうな子」になる。同情されるくらいなら、いっそ誰にも知られたくなかった。そしてもし篤と付き合うことになれば、いずれ知られてしまう。母を支えながら誰かと恋をする余裕なんて、自分にはない。そう思い込んでいた。

「わたし、進路変えたの。東京の専門、やめた。地元の花屋さんで働くことにした」

用意していたわけではない言葉が、するりと口から出た。篤の表情が固まる。

「……急だな。何かあったのか」

「別に。ただ、地元の方が向いてる気がしただけ」

嘘だった。篤はしばらく有紗の顔を見つめていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。誠実な人だから、有紗が「それ以上聞かないで」と背中で語っているのを、感じ取ってしまったのだろう。

「そっか」

短い言葉だけを残して、篤は階段を下りていった。振り返ることはなかった。

有紗は、篤の背中が見えなくなるまで動けなかった。言えなかった。母のことも、本当は自分がどう思っているかも。

──ごめんね。

声にならない謝罪だけが、三月の夜に溶けていった。

十年後。

「有紗ちゃん、そこの薔薇、もう少し前に出したほうが目立つんじゃない?」

「あ、ほんとだ。ありがとう沙織《さおり》」

早坂有紗は花束の位置を直しながら、開店準備の手を止めなかった。商店街の一角にある小さな店、「フルール・アリサ」。三年前、母の入院費を工面するために始めた花屋だが、今では常連客もついてきている。

親友の森田沙織が、隣の美容室から顔を出してからかうように笑った。

「今日も朝から気合入ってるね。誰か来るの?」

「別に誰も来ないよ。ただの月曜日」

そう言いながら、有紗は店先に「本日の花」の黒板を出した。三月の陽射しは、まだ少し肌寒い。あの卒業式の夜からちょうど十年が経つのだと、ふと気づいて、有紗は自分でも驚いた。

十年。母の由美子は、今も当時の後遺症と付き合いながら暮らしている。以前ほど重くはないが、無理はできない。だから有紗は、店の営業と母の介護を、ほとんど一人で担ってきた。それが当たり前になっていて、寂しいと思う暇もなかった。

「有紗、そういえば聞いた?」沙織が声を落とした。「うちの商店街、再開発の話が本格的に動いてるって」

「再開発?」

「なんか、駅前から続く区域が対象になるって噂。この前、説明会の案内が回覧板で回ってきたでしょ」

「ああ……それ、正直まだちゃんと見てなくて」

有紗は正直に答えた。店と母のことで手一杯で、回覧板の内容までは頭に入っていなかった。

その時、控えめにドアベルが鳴った。

「すみません、少しいいですか」

聞き覚えのある声に、有紗の手が止まった。

振り返ると、スーツ姿の男性が、戸口に立っていた。記憶より少し大人びた輪郭。だが、その少し困ったような目元は、十年前から変わっていなかった。

「……篤くん?」

「久しぶり、有紗」

桐生篤は、名刺を差し出しながら、どこか気まずそうに笑った。

「実は今日、この辺りの再開発事業の担当で回ってて……有紗の店だって、看板見て気づいた」

有紗は差し出された名刺を受け取った。「都市開発一課 桐生篤」の文字が、蛍光灯の下で妙にはっきりと見えた。

十年前、何も言えずに離れた相手が、今度は「事業者」として目の前に現れている。有紗は名刺を握りしめたまま、次に何を言えばいいのか、しばらくわからなかった。

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