Masuk
体育館の裏、桜の蕾もまだ固い三月の夜だった。
早坂有紗《はやさかありさ》は、コートの前をかき合わせながら、校舎の非常階段に座っていた。明日には卒業式がある。制服を着るのも、あと一度きりだ。 「こんなところにいたのか」 声に振り返ると、桐生篤《きりゅうあつし》が息を切らして立っていた。前髪が汗で額に張りついている。きっと教室から探し回ってくれたのだろう。 「……何か用?」 有紗は、努めて何でもない声を出した。篤が何を言おうとしているのか、わかっていた。わかっていたからこそ、逃げてきたのだ。 篤は階段を三段のぼり、有紗より少し高い位置で足を止めた。夜風が二人のあいだを通り抜けていく。 「有紗、俺──」 「篤くん」 有紗は先に言葉を挟んだ。続きを言わせてはいけない、と思った。もし篤が想いを口にしてしまえば、自分はきっと頷いてしまう。頷いてしまえば、後戻りできなくなる。 母の病気のことは、誰にも話していなかった。話せば「かわいそうな子」になる。同情されるくらいなら、いっそ誰にも知られたくなかった。そしてもし篤と付き合うことになれば、いずれ知られてしまう。母を支えながら誰かと恋をする余裕なんて、自分にはない。そう思い込んでいた。 「わたし、進路変えたの。東京の専門、やめた。地元の花屋さんで働くことにした」 用意していたわけではない言葉が、するりと口から出た。篤の表情が固まる。 「……急だな。何かあったのか」 「別に。ただ、地元の方が向いてる気がしただけ」 嘘だった。篤はしばらく有紗の顔を見つめていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。誠実な人だから、有紗が「それ以上聞かないで」と背中で語っているのを、感じ取ってしまったのだろう。 「そっか」 短い言葉だけを残して、篤は階段を下りていった。振り返ることはなかった。 有紗は、篤の背中が見えなくなるまで動けなかった。言えなかった。母のことも、本当は自分がどう思っているかも。 ──ごめんね。 声にならない謝罪だけが、三月の夜に溶けていった。 十年後。 「有紗ちゃん、そこの薔薇、もう少し前に出したほうが目立つんじゃない?」 「あ、ほんとだ。ありがとう沙織《さおり》」 早坂有紗は花束の位置を直しながら、開店準備の手を止めなかった。商店街の一角にある小さな店、「フルール・アリサ」。三年前、母の入院費を工面するために始めた花屋だが、今では常連客もついてきている。 親友の森田沙織が、隣の美容室から顔を出してからかうように笑った。 「今日も朝から気合入ってるね。誰か来るの?」 「別に誰も来ないよ。ただの月曜日」 そう言いながら、有紗は店先に「本日の花」の黒板を出した。三月の陽射しは、まだ少し肌寒い。あの卒業式の夜からちょうど十年が経つのだと、ふと気づいて、有紗は自分でも驚いた。 十年。母の由美子は、今も当時の後遺症と付き合いながら暮らしている。以前ほど重くはないが、無理はできない。だから有紗は、店の営業と母の介護を、ほとんど一人で担ってきた。それが当たり前になっていて、寂しいと思う暇もなかった。 「有紗、そういえば聞いた?」沙織が声を落とした。「うちの商店街、再開発の話が本格的に動いてるって」 「再開発?」 「なんか、駅前から続く区域が対象になるって噂。この前、説明会の案内が回覧板で回ってきたでしょ」 「ああ……それ、正直まだちゃんと見てなくて」 有紗は正直に答えた。店と母のことで手一杯で、回覧板の内容までは頭に入っていなかった。 その時、控えめにドアベルが鳴った。 「すみません、少しいいですか」 聞き覚えのある声に、有紗の手が止まった。 振り返ると、スーツ姿の男性が、戸口に立っていた。記憶より少し大人びた輪郭。だが、その少し困ったような目元は、十年前から変わっていなかった。 「……篤くん?」 「久しぶり、有紗」 桐生篤は、名刺を差し出しながら、どこか気まずそうに笑った。 「実は今日、この辺りの再開発事業の担当で回ってて……有紗の店だって、看板見て気づいた」 有紗は差し出された名刺を受け取った。「都市開発一課 桐生篤」の文字が、蛍光灯の下で妙にはっきりと見えた。 十年前、何も言えずに離れた相手が、今度は「事業者」として目の前に現れている。有紗は名刺を握りしめたまま、次に何を言えばいいのか、しばらくわからなかった。商店街の空き店舗の一つを借り受け、有紗たちは「対案本部」と呼ぶ作業場を作っていた。もとは古い荒物屋だった店内には、健太が作った模型と、沙織が描いた手描きの地図、それに住民一人ひとりから集めた声を書き留めたノートが積まれている。 「これで、パースの色塗りは終わり」 健太が筆を置いて伸びをした。模型の隣には、若い設計士見習いだという健太の友人が描いた完成予想図が並んでいる。商店街のアーケードを活かしながら、空き店舗をリノベーションして小さな工房や休憩スペースに変える案だった。 「思ったより、本格的になってきたね」 沙織がノートをめくりながら笑った。フリーペーパーに載せる原稿は、すでに三稿目に入っている。取材と称して一軒一軒を回るうちに、最初は懐疑的だった店主たちも、少しずつ言葉を寄せてくれるようになっていた。 「うちみたいな古い店でも、続けていけるって思えるならな」 そう言ってくれたのは、老舗の乾物屋の主人だった。かつて有紗が頭を下げて回った時には、にべもなく追い返された相手だった。 有紗はノートに彼の言葉を書き留めながら、胸が熱くなるのを感じていた。 「有紗さん、収支のほうなんですけど」 経理事務の女性──名を朋子といった──が、電卓片手に声をかけてきた。 「行政の空き店舗活用の補助金、いくつか使えそうなものを見つけました。これを組み込めば、初期投資はもう少し抑えられます」 「本当ですか」 「はい。あと、これは提案なんですが……フリーペーパーの取材で集めた『住民の声』、そのまま資料に添付したらどうでしょう。数字だけじゃなくて、生の声があったほうが、説得力が違うと思うんです」 有紗は朋子の顔を見て、頷いた。 「篤くんも、同じようなこと言ってた。数字と、人の声。両方が揃って、初めて伝わるものがあるって」 作業
三田から会議室に呼ばれたのは、見直し案を提出してから三日後のことだった。 「中村部長には、もう目を通してもらった」 三田の声は淡々としていたが、表情はどこか重い。篤は椅子に座り直し、続きを待った。 「結論から言う。今のところ、正式な採用は難しい」 覚悟はしていたはずだった。それでも、胸の奥が冷たくなる感覚は消えなかった。 「理由をうかがってもいいですか」 「収支のバランスが合わない、というのが表向きの理由だ。だが本音はもっと単純だよ。もう決定した案をひっくり返す前例を作りたくない。それだけだ」 篤は資料に目を落とした。住民の声を一軒ずつ拾い集め、可能な限り数字に落とし込んだ束だった。夜遅くまでかけて仕上げたものが、たった一言で退けられようとしている。 「感情論だと、中村部長は言っていた」 その言葉が、胸に刺さった。感情論――住民たちが十年、二十年と積み重ねてきた暮らしを、そう片付けられてしまうことに、篤は静かな怒りを覚えた。 「三田さんは、どう思われますか」 三田は少し間を置いてから答えた。 「私は……悪くない提案だと思っている。ただ、社内で味方が少なすぎる。中村部長に正面から反対できる人間が、今のところ君しかいない」 その言葉に、篤はふと同期の田村の顔を思い浮かべた。先日、居酒屋で交わした短い会話。田村は表立って賛同はしなかったが、「お前の言ってることは、間違ってないと思うけどな」とだけ呟いていた。 「一人でも、いいんです」 篤は資料を持ち直した。 「一人からしか、何も変わらない。それは、有紗さんが教えてくれたことです」 三田は少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。 「……もう一度、練り直してみるか。
かすみとの一件から数日後、篤は自分のデスクで、ある決意を固めていた。 田村との会話、有紗と商店街の人々への想い、そして自分自身への問い直し──それらすべてが、篤の中で一つの結論へと収束しつつあった。 このまま黙って本社業務を続けるわけにはいかない。 篤は週末を使い、これまで現地で集めてきた情報や、住民たちとの対話の記録を整理し直した。会社の資料庫にアクセスできる範囲で、他の再開発事例──住民との協働によって成功した事例も調べ上げた。数字だけでなく、住民の生活の質、地域コミュニティの持続性、長期的な資産価値の観点からも、強行的な再開発が必ずしも最善ではないことを、篤はデータと共に裏付けていった。 月曜の朝、篤は上司である課長──中村の下で直接指示を受ける立場の課長に、面談を申し入れた。 「桐生、話ってなんだ」 課長の三田は、怪訝な顔で篤を見た。 「見直し案を、正式に提出したいと思っています」 「見直し案? お前、まだそんなこと言ってるのか」 「はい」篤は臆さず、まっすぐに三田を見た。「感情論ではありません。データに基づいた、会社にとってもメリットのある提案です」 篤は用意してきた資料を差し出した。三田はしばらく渋い顔をしながらも、資料に目を通し始めた。 資料には、篤が現地でまとめた住民の声、商店街側で進んでいる対案の概要(有紗から共有してもらった情報を基に、篤なりに整理したもの)、そして他の成功事例との比較が、丁寧にまとめられていた。 「……この、商店街側の対案というのは?」 「住民主導で進められている計画です。建物の一部改修と、伝統を活かしながら新しい店舗を誘致する案。まだ検討段階ですが、実現すれば、強行的な立ち退きよりも、長期的に見て地域の資産価値を高める可能性があります」 「そんな都合のいい話、あるわけないだろう」
修正した企画書を携え、かすみは再び中村のもとを訪れた。 「先日の企画、双方向の発信という形に組み直しました」 かすみは資料を差し出した。住民の声だけでなく、事業者側の配慮や取り組みも並行して紹介する構成。中村はしばらく黙って目を通していたが、以前よりは表情が和らいでいた。 「……なるほどな。これなら、会社としても発信しやすい形だ」 「ありがとうございます」 「ただし」中村は資料を置き、かすみを見た。「あくまで会社の広報として、中立的な立場を保つこと。それが条件だ」 「承知しています」 面談を終え、かすみは小さな達成感を覚えていた。完全に望んだ形ではないが、一歩前進したことは確かだった。だが同時に、かすみの中には、まだ言葉にならない違和感も残っていた。 中立的な立場、か。 その言葉を反芻しながら、かすみは自席に戻った。果たして自分は、本当に中立でいられるのだろうか。有紗という女性の存在を知り、あの商店街の人々の想いに触れた今、かすみの中で、単純な「事業者側の広報担当」という立場だけでは括りきれない感情が芽生えていた。 数日後、かすみは久しぶりに現地へ足を運ぶことになった。企画のための取材という名目だったが、かすみ自身、もう一度あの街を、自分の目で確かめたいという気持ちもあった。 商店街に着くと、以前とは違う空気が漂っていた。あちこちの店先に、対案作りへの参加を呼びかける手作りのポスターが貼られている。人々の表情にも、以前訪れたときより、どこか活気が感じられた。 かすみは「フルール・アリサ」の前で足を止めた。少し迷ったが、思い切って中に入った。 「いらっしゃいませ……あ」 有紗はかすみの顔を見て、一瞬言葉を失った。 「お久しぶりです」 かすみは静かに頭を下げた。有紗も慌てて
中村への企画提案は、かすみの予想に反して、その場で即決とはいかなかった。 「住民インタビューシリーズ、か……」 中村は資料に目を通しながら、渋い表情を浮かべていた。 「三浦さん、悪くない発想だと思うよ。だが、今のタイミングでこれをやると、会社の姿勢が揺らいでいるように見えかねない。再開発の方針は、正式に決定している段階だ」 「ですが部長」かすみは食い下がった。「住民の声を可視化することは、会社の透明性を示すことにもなります。むしろ、今だからこそ意味があると思います」 「気持ちはわかる。だが、今は時期尚早だ。ペンディングにしておこう」 その一言で、面談は打ち切られた。かすみは会議室を出ながら、悔しさを噛み締めていた。 自分のデスクに戻る道すがら、かすみは複雑な感情に襲われていた。企画が却下されたことへの悔しさだけではない。もっと根本的な、自分自身の立ち位置への迷いだった。 私は、この会社の広報担当として、何を守りたいんだろう。 かすみはこれまで、会社の方針に忠実に、広報という仕事を全うしてきた。事業者側の立場を守り、円滑に物事を進めることが、自分の役割だと信じていた。それは決して間違いではなかったし、誇りを持って取り組んできた仕事だった。 だが、篤の話を聞き、有紗という女性の存在を知り、あの商店街の人々の暮らしに触れたことで、かすみの中に、これまでなかった視点が芽生えていた。 会社の利益を守ることと、住民の暮らしを守ることは、本当に対立するものなんだろうか。 デスクに戻ると、後輩の女性社員が声をかけてきた。 「三浦さん、企画どうでした?」 「ペンディングだって」 「そうですか……」後輩は少し残念そうな顔をした。「でも、私、あの企画いいと思ってたんですけどね。今の会社のやり方、正直、外から見ても心証よくない
かすみが篤と別れてから、一週間が過ぎた。 広報部のオフィスは、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。かすみは自分のデスクで、資料の束を前に、しかしなかなか集中できずにいた。 篤との会話を、何度も頭の中で反芻していた。あの日、自分から切り出した言葉たちは、決して嘘ではなかった。だが、心の整理がすべて終わったわけではない。 「三浦さん、お疲れ様です」 後輩の女性社員が声をかけてきた。かすみは我に返り、笑顔を作った。 「お疲れ様。どうかした?」 「例の再開発の件、また会議が入るみたいです。中村部長から」 「わかった。資料まとめておくね」 後輩が去っていくと、かすみは資料に目を落としながら、ふと篤との出会いを思い出していた。 入社二年目、同じプロジェクトで組んだのが最初だった。篤は誠実で、真面目すぎるほどまっすぐな人だった。仕事に丁寧に向き合う姿に、かすみは好感を抱いた。付き合い始めてからも、篤はいつも誠実だった。派手さはないが、一緒にいて安心できる人だった。 だから、私は篤との将来を、当たり前のように思い描いていた。 けれど、今にして思えば、どこかに違和感もあった。篤はいつも、どこか一歩引いたところがあった。深く踏み込むことを、無意識に避けているような。かすみはそれを、篤の性格だと思っていた。誠実だからこそ、慎重なのだと。 だが、本当は違ったのかもしれない。篤の心の中には、ずっと、誰かのための場所が空いたままだった。それは、かすみがどれだけ努力しても、埋められない場所だった。 十年前に、置いてきてしまった何か。 現地出張から戻ってきた篤の変化に気づいたとき、かすみは最初、認めたくなかった。仕事だから、地元だから、懐かしさもあるだろう。そう自分に言い聞かせていた。だが、篤の目の色、言葉の端々に滲む何か──それは、かすみが今まで見たことのな